毎日ばあちゃん

99才、お迎えが来たけど断ったばあちゃんの事。家族の事。自分の事。

誰かの霧が晴れるように

神奈川のチベットと言われる相模原、藤野。

日本で一番アーティスト在住密度の高い地域であり、パーマカルチャージャパンの所在地でもある。

自然とアート、古の知と最先端の知が融合した緑豊かなこの場所は、私の癒しの場所であり、インスピレーションとインスパイアの宝庫でもある。


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最近、少しずつ自分のセクシャルマイノリティーを自認し始めた私のために、友達が用意してくれたスペシャルな時間。


LGBTのごうちゃんとアセクシャルの私。

その2人を病と必死に戦っている最中の友達が引き合わせてくれた。

何時間も、時間を忘れて3人で語った。

泣いたり笑ったり、食べたり飲んだり忙しかった。

他愛もない話が多かったけど、全部が尊いなと思った。

こうやって、話しを聞き、聞いてもらえる時間は誰にも必要なんだ。


帰る頃には心がすっかり晴れ晴れとしていて、ずっと重く腫れぼったかった目の上が、霧が晴れるみたいに軽くなっていた。


なんだか新しい自分に生まれ変わったみたい。大げさだけど。

私も、いつか誰かの霧が晴れるように、大きく包み込む存在になれたらいいなーと思った。

2人とも、今日は本当にありがとう。




ショートトリップ

2年前、台湾に行った時のメンバー3人で春水堂(チュンスイタン)横浜店に行って来た。


実はここ最近、以前台湾で食べたシェントウジャンが食べたくて、自分で作ったりしてたのだけど、お店の食べてみたいね〜ということで探して行き着いたのがここ春水堂。


本当はスープとして食べたかったんだけれど、ネットでググっても近場ではシェントウジャンを提供しているお店が見つからず、春水堂のランチにシェントウジャンベースの麺があるって事を知り、どれどれ行ってみようかという運びになった。



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Aランチ(お好きな麺+ミニデザートorお好きな点心小鉢+お好きなドリンク)

で価格は¥1450-


ドリンクにタピオカを追加して+¥50-


スープとして味わうシェントウジャンよりも味が濃く、ラーメン!というガッツリ感があり、ラクサを食べてるような印象。

これはこれでとても美味。でもやっぱり朝食で食べられるような、もう少しアッサリした感じが食べたいんだよなぁ〜と再確認。


鉄観音のタピオカミルクティーはさっぱりだけど風味とコクが深い。

そしてデザートの豆花は、雑味をなくした食べやすさがありました。


タピオカでお腹パンパンになったところで、やーやっぱり自分で作りたいねという欲がムクムクとわいてきた私たち。


そのまま中華街に移動して、食材を探し回ることに。


結局私は最近ハマっている韓国料理用の粉唐辛子( 1キロ)とプルダックンポックンミョンを購入。

粉唐辛子 1キロあったらしばらくキムチ作りに困らないかな。


近場だけど、なんかショートトリップしたような感覚になれて、たまに中華街行くのもいいなぁと思った。


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そうめんと梅仕事と

今年初のそうめん。


たっぷりの麺つゆ

刻んだみょうが

焼きのり

いりゴマ

シーチキン

最後にゴマ油をほんの少し

これをつけダレにしてそうめんを食べる。


海苔はいらなかったかな、とか麺つゆが濃かったなと思いながらミョウガの風味を楽しむ。

たくさん茹でたそうめんも一瞬にしてなくなる。


1人のご飯は簡単でいいなー。

そうめんは簡単1人飯にもってこいだなと思う。


そして食後は梅仕事。

今年はたっぷりと無農薬の梅を2キロ頂いて、どうしたもんかと思っている間にだいぶ追熟してしまった。。

シロップ漬けにするには熟し過ぎ?

と思いながら、梅を洗い、水分をきれいに拭いて消毒済みの瓶に詰めた。

普段上白糖も氷砂糖も使わないので、自宅にあるサトウキビ糖を使ったのだがどうなるか。

おとなしく梅酒にすれば良かったのだけど、

シロップを作った後の梅で甘露煮を作りたくて。とりあえずやってみる。



これが昨晩のこと。



今朝大阪で大きな地震が起きた。

311の記憶が一気に蘇った。


あの時は出張でつくばにいて、立ってられないほどの揺れを初めて経験した。

電車は3日間動かず、ホテルはどこも満杯で、市内はどこも断水、停電、停ガス。

3日間市庁舎に設置された避難所で生活をした。

3日後、とりあえず千葉まで行けば電車が動いていると聞き、そこまでなら連れてってくれるという人が現れて車に乗せてもらったが、移動中の道のりが目を疑う光景ばかりで、なんだか夢を見ているような、地に足がついていないようなふわふわした心持ちだった事を今でも鮮明に覚えている。


あの頃は地震に対する構えが何もなかったから、事前に大きめの前震があったことも知らずその後本震が来る可能性も知らず自然災害の恐ろしさも知らなかった。


携帯が完全に死んだこともあり、避難所生活の間は状況の把握が出来ず能天気に3日間を過ごしたが、3日ぶりに帰った家の中の悲惨さと、改めてテレビを見てそこで初めて恐ろしいと思った。


それからは、狂っていく日常

恐ろしいという不安に支配される日々。

あれっていわゆるPTSDというやつだったのではないだろうか。





そうめんを食べ、梅仕事をし、「はぁ〜・・夏が来るな〜・・!!」なんて能天気にしていた昨日と今日の夜は全然違う。

ツイッターから地震情報が届く度に、胸がドキドキする。


311も、阪神淡路も、本震の前にかなり大きな余震があったようなので、しばらく超警戒状態で寝起きした方がいい。






マクラメと私

2011年。1ヶ月かけてタイを旅した。
バンコクを拠点に、南の離島コタオ、その後北に向かい、ミャンマーとの境くらいまでをノープランに気ままに移動する旅だった。

ワーホリでオーストラリアに行っていた当時の彼が、約2年のワーホリが終わるタイミングでそのままタイに行くというので、じゃあちょうど仕事も辞めたとこだし私もタイで合流しようかな、という流れでの旅だった。

まる1ヶ月の旅はとっても濃くて、色んな出会いがあって、波乱万丈で、なかなか一言では言い尽くせないのだけれど、この旅一番の出会いは、なんと言ってもマクラメとの出会いだったと7年経って改めて思う。

ちなみにマクラメ(編み)とは、指で糸や紐を編む技法の総称のこと。
総称なので、単に「マクラメ」と言った場合かなり広義になってしまうのだが、私のやっているマクラメは、「マイクロマクラメ」というものに定義されるのかな。
(そこらへん、あんまり詳しくないので違ったらすみません)
0.5ミリなどの細い蠟引き紐を使って天然石を編み込み、アクセサリーを作るというもの。

当時マクラメのアクセサリーは持っていたものの、手作りという概念が全く皆無だった私。それが、このタイの旅で出会ったある1人の男の子によって大きく変わった。

その男の子は、自分でマクラメを編みながらそれを道ばたで売って旅の資金を稼ぎ、インドを拠点にひたすらアジアをぐるぐるしているという子だった。

道具は必要ないし、紐と自分の指さえあればどこでも編めるからね。時間はいっぱいあるし。と言うその子の笑顔は、最高にキラキラしていて、とっても眩しいなと思ったのを覚えている。
その笑顔を見て私は、この人は今素敵な時間を過ごしているんだろうなと思った。
その最高の笑顔が実際、素晴らしい時間の積み重ねによって自然に出てきたものだ、とも思った。

すぐに、私もマクラメやってみたいなという気持ちが湧いてきた。

でも、最初からのめり込むようにマクラメにはまっていったわけではない。
どちらかと言うと少し打算的というか、淡い夢のような気持ちが含まれていた。というのが正直なとこかもしれない。

と言うのも、当時私の彼はオーストラリアの路上で打楽器演奏をしてお金を稼ぐ・・いわゆるバスキングをしながら旅を続けていたヒッピー能天気野郎で(あ、これは彼のことや、ヒッピーやバスカーを否定するものではなく、私なりの愛情表現の一種です。)
色んな国に行って自分の腕を試したいという希望を持っていた。
そして、タイで合流した際、このまま一緒に旅しない?と言われていたのだ。

私はなんて楽しそう!と思いつつも、
自分はそのスタイルの旅をしても何も収入がないし、彼におんぶにだっこはどうしても嫌だ。何か手に職さえあれば、、いやいや、その前に日本には色々残してきちゃってるし、、、ぶつぶつぶつぶつ・・・とにかくすぐにはムリだ!
と目先と後先の事しか考えられず、行きたい気持ちはあるけど今すぐには無理だよ、、タイでの1ヶ月が終わったらあたしは一旦日本に帰る、と答えたところだったから、
マクラメが「これであたしも旅ができるかも!」という希望のように思えたのだ。
今にして思えば、何にもなくたって旅は出来たのにね。その頃の私はかなり現実的というか保守的、だったと思う。


さて、カオサン通りの雑踏の中で再び会った時、マクラメの男の子は私とヒッピー野郎の彼に、マクラメ編んでみる?指輪くらいなら1時間くらいで作れるよ。と言ってくれた。

私も彼も、喜んで教えてもらうことにした。
人や犬や露天商や食べかすやゴミやらでごった返す道端に座り込み、道具を全く使わないスタイル(縦糸になる紐を自分の足指に絡めて編んでいく)で編む初めてのマクラメは自分にとってはかなり難解で、結局4時間くらいかかってしまっただろうか。
陽もとっぷりと暮れ、煌々と・・いや、ギラギラと輝くカオサン通りの店明かりでなんとか手元を照らし編みあがった指輪は、なんとも不恰好で、とても見れたような代物じゃなかったけれど、黙々と編む行為、そして数字を読んでいくようなその作業に、頭を抱えつつもハマってしまった。
というか、もっと編めるようになりたいと思った。

私はすぐに近場でマクラメの材料が手に入るところを探し、石を手に入れ、旅の間中マクラメを編んだ。

1ヶ月の滞在が終わって日本に帰って来てからもマクラメ熱は冷めず、教えてくれる人を見つけては単発で新しい技や基本を習い、本やネットで情報を集めた。
その頃はまだ今みたいにマクラメ本やネットの情報も少なくて、教えてくれる人もかなりクローズな感じでやっていたので、覚えるにはかなりの時間とお金がかかったけど、とにかくコツコツと続けた。

それから2年くらい後にヒッピー野郎の彼とは別れたのだが、一緒に旅をするための手段は必要なくなったにもかかわらず、それでも私のマクラメ熱は冷めなかった。
熱しやすく冷めやすい私にとって、バスケ以来熱中しものは初めてだった。

7年経った今は、ある程度人に教えられるくらいには上達したし、オーダーをもらったりするくらいまで成長した。
最近は、マクラメで使う天然石を仕入れる楽しみも増え、それなりにやっている。
いつかまた、仕事を辞める日が来たとしても、自分がどこに行ったとしても、紐があって、手を動かす事さえ出来るうちは、マクラメで多少は食べていけるんじゃないかという自信もついた。
これからの自分がどうなっていくのか、いまだ全くわからない私だけど、マクラメとは一生つきあっていくのだろうなと思う。

そんなものに出会えたタイの旅。
あの時マクラメをおしえてくれたあの子は、今どうしているんだろう。
オーロヴィルあたりに腰をおろしてたりして。。
石の買い付けとか、ネパール旅行の事とか考えてたら、久々に思い出し&馳せた今日でした。

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最近の仕入れ。

なんとも女性らしい美しさをまとったクォーツたち。





ユザーンとアミットロイさん @北インドまつり

アミット・ロイとユザーンの北インド古典音楽コンサート。

お2人とも超絶カッコよかった。。

トラディショナルなインド音楽について全く知識がなくても、誰もが引き込まれ、魅了される演奏だと思った。

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私は楽器演奏はほとんど出来ないけど、普段アフリカのトラディショナルを踊ったり歌ったりたまーに叩いたりしている。

アフリカンで使われる代表的なジャンベという太鼓も、タブラと同じ「皮を張った太鼓」だけど、全然違うんだなぁ。。


ちなみに、構造テクニック云々の前に、素手で叩く太鼓は慣れてない人であれば5分も叩けば手が真っ赤に腫れて痛くなる。

長時間叩くと血尿が出る。

昔、ジャンベの先生が「手のひらを鍛えるためにひたすらアスファルトを叩いて鍛えた」と言っていたが、誇張なしにそのくらい手を強くしないと、まずは単純に「叩き続ける」ということが出来ない。

故にわたしはほとんど太鼓を叩かない。

痛いの苦手。


でもタブラは指先であのカーン!とした音を出すんだよ。

それからあの多彩な音を繰り出すには

右手と左手の組み合わせ、指先と親指の腹、手のひら全体を細かく使いわける必要があるわけで、とにかく気の遠くなるような鍛錬が必要だ。


コンサートが終わってから喫煙所でご一緒したおじさまが、1曲目は11拍子の曲だったと教えて下さった。

音楽は奥が深い。そして世界は広い。



ユザーンは19でインドに渡ったと何かで読んだので、かれこれ20年以上タブラを追求し続けている。

アミット・ロイさんはシタール制作者のお父様を持ち、国際的に活躍したシタールの巨匠故ニキル・ベナルジーに師事した、数少ない日本在住のプロ奏者。インドでも銀のように輝く旋律と高く評価されている方だそう。佇まいがもうなんだか神だった。



1つのことを極めること、そしてそれをものにしてから独自のスタイルを確立すること。そんなカッコ良さに触れて心底痺れた。


インド音楽いいなぁ。。


最近久々に見返していた『ムトゥ踊るマハラジャ』のラジニ様Tシャツやマサラワーラー武田さんの作品も買えてとても大満足な1日でした。



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どや!この神々しさ。



分かる必要のないこと

登山家の栗城史多さん死亡の知らせが飛び込んで来た。

今回のエベレストアタック中、体調不良により途中下山している中での遭難だったとのこと。(まだ速報段階なので詳細は不明)

事務所が公式一報を出しているので、亡くなったのは間違いない。享年35才か。。


昔、父に「なんで登山家は命懸けで過酷な山に登るのか。あたしは分からない。」と言った時、「そんなもの、分かる必要がないじゃないか。」と言われた。


ごもっとも!な返答をされた時私は気づいた。

私のなかにある「分からない」には、分かってみたいという願望が含まれていたのだということ。


今年の11月、やっと私はネパールに行く。ヒマラヤ山脈を見に行く。

今回の事がなくても元々決めていたことだ。

登山は出来ないけど、ヒマラヤの麓からそんな彼らの目指した場所を眺めてみたい。

同じ高さの景色は見れないけど、その場所に惹かれる理由を垣間見れたらいいなと期待している。


R.I.P.



おすすめの一冊 「ここは、おしまいの地」

小さい頃、私はばあちゃんの大切な指輪を失くしてしまったらしい。


自分では全く覚えていないが、ばあちゃんの鏡台から指輪を持ち出し、どこかに隠してしまったそうだ。

自分では全く覚えがないので、意図的ないたずらではないのだが、指輪は結局見つからず。その後引越しをした時にすら出て来なかったので、どこか、外に持ち出してしまったのかもしれない。

大変なことをしてしまった。


大きくなったら私がばあちゃんに大きな指輪を買ってあげると言っていたのに、結局その約束も果たしていない。



もう1つ、ばあちゃんの指輪を失くすよりも前のこと。

これも全く身に覚えがないのだが、、2才になったばかりの頃、入院してしまった母に、私は「おばさん」と呼んでしまった事があるのだそうだ。

入院して半年程で亡くなってしまった母。

幼子を残していくだけでも悲しいことなのに、実の娘にたった半年入院してる間に忘れられてしまうなんて、なんて悲しい話だろう。(犯人は私なのだけど。。)


物心ついて間もなくだから仕方のない事だったと慰められたが、

20才の時、母の18回忌の場で4姉妹だった母の姉妹達に「これはもう時効だけど。」と言ってこのことを教えられた時には自分で自分のことを呪いたくなった。

ウソでしょ!?と思った。

母のことを忘れたことなんて一度もないと思っていたのに。


母はその時、そのことを姉妹達に告げ、号泣していたそうだ。


母が生きている中で、一番悲しい出来事だったのではないかと思う。

私が今まで生きてきた中で、一番大きな罪なのではないかと思う。

(他にも両親への懺悔は腐るほどあるけど。)

ほんと、取り返しのつかない事をしてしまった。。



大人になってからの私。たくさんの小さいウソ(隠し事、と言った方がいいかもしれない)がいっぱいある。

大概、家族を安心させるためと言いながら自分を取り繕うためのものが多くて嫌になる。


そうやってたくさんの懺悔を溜め込む。

なんとか挽回するために、生きなきゃと思うし、もう色々疲れて生きているのが嫌になる時もある。

私は生きるのが下手くそだ。

年を重ねるごとに、生きていてごめんなさいという気持ちが大波のように押し寄せて、さらっていく時が増えた。



でも、そんな気持ちを救ってくれるものもある。それは、友の言葉であり家族が喜ぶ顔。長生きして頑張っているばあちゃんの存在そのもの。

それから、一冊の本であり、映画だ。



前置き長くなりましたが、、

色々疲れたかも、という時にぜひ読んでもらいたい本がある。



ここは、おしまいの地

ここは、おしまいの地



もうおしまいだな、、というくらいの不幸な話を、こんな風に俯瞰しながら語れるのはなぜなんだろう。

全ての不幸がこれでもかと押し寄せたみたいな人生を送る作者こだまさん。

それをあるがまま受け入れて笑いに変えていくいくこだまさん。



生きる意味なんて必要なくて、ただ、あるがままを受け入れてとにかく死ぬまで生きる。


前向きとかポジティブともちょっと違う。

でも、まーこんなもんか、と自分を受け入れられる。

そんな気持ちにさせてくれる本です。