毎日ばあちゃん

99才、お迎えが来たけど断ったばあちゃんの事。家族の事。自分の事。

行雲流水

坂爪圭吾という面白い人がいる。

直接会ったことないのだけど、『いばや通信』というブログを書かれていて、定期的に拝読している。


【いばや通信】

http://ibaya.hatenablog.com/



たくさんの読者がいるので、知ってるよ、という方も多いかもしれない。

私は、彼のブログを読んでいると、古くから直接知ってるような、まるで自分の事が分かっているのではないかと思うような既視感に襲われる。


何がどう面白いのかは、直接ブログを読んで頂くのがてっとり早いと思うのだけど。


行雲流水。


雲が悠々と大空を行く如く、また流れる水の如く一処にとどまらず師をたずね修行の行脚したこと


彼を見ていると、禅僧のこの言葉を思い出す。


色々なものに囚われすぎている私。

自分の事しか愛せない私。


そんな自分を突きつけられたり、癒されたり。ピンポイントで心を突いてくる言葉を彼は知っている。


いいなぁ。

とってもいいなぁ。


バスケの神さま

仕事が忙しくて激しくモチベーション低下。

 ブログからもしばらく遠のいてしまった。。

ほとんど読んでもらうことのないこのブログだけど、何を書けばいいのか考えてしまったのもよくなかったなー。

ということで、今日は単に自分の思いを吐き出す日。


 

 


小学校3年生の時だった。

どうしてその日1人で学校に残っていたのか、今となっては全く覚えていないのだけれど、とにかく私はその日、生徒が誰もいなくなる時間まで学校に残っていた。

夏の、日差しが強い夕暮れ時だった。


帰ろうと思って下駄箱に向かった時、体育館からボールの弾む音が聞こえた。

「あれ?誰かまだ遊んでいるのかな?」と思って体育館を覗いてみたら、そこには兄のクラス担任の先生がいた。


その先生は過去、水泳授業中に飛び込みに失敗し、左半身が動かなくなってしまった人で、(ふざけて飛び込みして遊ぶ生徒をしかるため、「いいかー、飛び込みってのはこうやるんだ!!」と手本を見せようとしたところ小学生用のプールが思いの外浅くて頭を強打したという、、なんとも言えない話しである。)動かない左半身を人並みならぬ運動神経と精神力、そして杖をついて補いながら、先生としての人生を続けている人だった。

 


体育館に佇む先生の手にはバスケットボールがあった。

先生はボールの感触を確かめるように、何度かその場でドリブルをした後、右手だけで軽々と掴んだボールを額のところで構えた。

目線の先にはバスケットのゴール。

そのまま、右手だけのキレイなフォームでボールを投げた。


体は全く動かない。腕だけの動き。

右腕の、肩から手先にかけて、その一本の動きが完璧な流れだったと思う。

ボールは美しい孤を描いて、音もなくゴールネットに吸い込まれていった。

 

ネットを通り抜けたボールは勢いを残したまま、数回跳ねて先生のもとに戻ってくる。

先生はそのボールをまた右手で掴み、さっきと同じようにきれいなシュートを続ける。


ボールがまるで生き物ののようだった。

先生の言う事を忠実に守る鷹。

杖をついてもゆっくりしか動けない先生が全く動かなくてもいいように、ちゃんとその場に戻ってくる。

体育館の窓から降り注ぐ西日が、先生とボールとゴールをスポットライトみたいに照らすようにキラキラしていて

その光景は優しい時間というよりも、研ぎ澄まされた感覚が刺さる。そんな静かな時間だった。

 

心が震えた。

なんて美しいんだろうと思った。

私もあんな事が出来るようになりたいと思った。

 


ふと、私の存在に気付いた先生がシュートの手を止めこちらを見た。

「まだ残っていたのか?早く帰りなさいね。」

 

そう言う先生に私は、ドキドキする胸を押さえながら聞いた。

「先生、それは魔法?どうやったらそんな風にボールを思い通り動かせるの?」

 

先生は優しいまなざしで

「4年生になったらミニバスチームに入っておいで。そしたら教えてあげるよ。練習したらシュートもパスも上手になる。」

と言った。

 

後から聞いた話だが、その先生はかなり本格的にバスケをやっていたらしい。

半身不随になり体を自由に動かせなくなったことで社会人チームも抜けてしまったそうだが、バスケットに人生をささげてきたような人だったそうだ。

 

 

その日から、私は4年生になるのが楽しみで楽しみで仕方なくなった。

早くバスケがしたい!!と心待ちにしながら4年生になるのを指折り数えるように待った。

 

そしてやっと4年生になった春。

なんとその春に人事異動があり、先生は遠くの学校に転勤してしまった。

(教頭として他の学校に行くことになったそうだ。)

先生に教えてもらえないことはとっても残念だったけれど、その時はやっとバスケができる!という喜びであふれていたので、

とにかく毎日がキラキラしていた。

お遊びに毛の生えた程度のチーム。厳しい練習ではなかったけれど、最初は全くゴールに届かなかったところから少しずつ上達していって、初めてネットを揺らした時にはこの上ない喜びと感動が体中を駆け巡った。


いつか先生に会ったとき「わたしこんなに上手になったよ!」と伝えたい。そう思って一生懸命練習した。



それから一年が経った5年生のある冬の日。


太陽が舞い散る雪をキラキラと輝かせるほど日差しが眩しい朝だった。

連絡は突然だった。


電話を受けた母は、えぇとか、はい、とか言いながら何やらメモをとり、電話を切ったあと兄に言った。

「先生が、亡くなったんだって。今日は午前中授業お休みで、みんなでお葬式に行くことになるよ。」


兄たちは、先生の最後の担任クラスとなったため、みんなで参列しましょうという連絡網が学校から回ってきたのだ。


兄の横でその話しを聞きながら

「私も行きたい!」と言ってみたが、あんたはダメ。先生に教わってないでしょ。と速攻で却下されてしまった。


泣く泣く断念したが、それでも居ても立っても居られないというか、とにかく先生に最後のお礼をしたいという気持ちがおさまらず、私は昼休みの時間いっぱいかけて、まっさらな雪が積もる校庭で、腰まで埋まるほど積もった雪をかき分けながら大きな「ありがとうございました!」の文字を作った。

空からならこれが見えるだろうと思った。


それから、せんせーーい!!見えますかーー!!聞こえてますかーー!!

ありがとうございましたーーー!!あたしバスケ頑張りますーー!!

と叫んだ。



帰ってから聞いた話によると、先生は出張先で突然倒れ、そのまま帰らぬ人になったそうだが、おそらく、半身不随になった事故の後遺症が、今になって表面化したものだろうという話だった。。




その後、中学で私はスパルタ熱血指導の先生と出会い、1年の362日を練習に費やすという苦行のようなバスケ生活を送った。

泣きたい日も死にたい日もたくさんあった。

楽しいと思えなくなるほどだった。

でも半年も経たずにみるみる上達して、あの時の先生並みにシュート確率も上がり、地区の代表選抜に選ばれたり、キャプテンに任命されたり本当に、バスケ一筋の生活だった。

後にも先にも、バスケほど一生懸命取り組んだものは他にない。


その後、高校は私立の進学に進んでしまったため、両親からバスケ禁止、部活禁止令が出てしまったが、大学から社会人チームを自分たちで作り、社会人になるまで続けた。


仕事の転勤やメンバーの環境変化により、社会人チームは自然消滅してしまい、私自身も仕事でそれどころではなくなったし、現在は生まれ育った場所から遠く離れたところで暮らすようになったので、自然とバスケからは遠のいてしまった。

最近は年齢的にも厳しくなり、たまに地域の練習チームに参加する程度になってしまったけれど、私は今でも、あの時の、あの光景を忘れていない。


あの時、私のところに降りてきたバスケの神さま。

教えてもらう願いは叶わず、上達を披露することも出来ず亡くなってしまったけれど、、

先生との出会いが私の人生を変えました。

ありがとうございました!!




vol. 12 母の記憶

亡くなった母の事を少し書いておこうと思う。


以前のブログでも簡単に触れたが、私の産みの母親は、私が2才半の時に癌で亡くなっている。


まだ30代だった。

なかなか風邪が治らない、と病院に行ってみたら末期癌だったらしい。


その時点で余命3ヶ月宣告を受け

すぐに入院生活が始まり、そのまま一度も自宅に帰れないまま半年ほどで亡くなってしまった。


母の入院生活が始まったのは私が2才になったばかり、兄が3才の時だから、

そんな幼子2人を残して死んでいく母の気持ちを思うと、神さまは本当に残酷だ。


さて、私たちきょうだいは言葉を覚えた瞬間から、赤ちゃん言葉ではなかった(これはばあちゃん談なのでウソか誠か怪しいところだが、にゃんにゃんではなく猫。わんわんではなく犬。という感じだったらしいw)というくらい聡いきょうだいではあったが、物心つくかつかないかの頃。さすがの私もその頃の記憶はほとんどない。

つまり、母の元気な頃の記憶がほとんどないということになる。


1つだけ、覚えている元気な頃の母とのエピソードは、兄が買ってもらった新しい靴を履いて喜んでいるのをみて羨ましがったら、それをなだめるために母がおんぶしてくれた・・・という、なんともありふれた、微笑ましい日常の1コマ。


写真を見たらもっと思い出すかなぁ、と思って何度もアルバムを引っ張り出してみたりもしたが、どんなに記憶を辿っても、入院前の母の記憶は他には出てこなかった。


ちなみに、大きくなった私に母からの手紙が、、とかドラマとかでよくあるような展開も待ってはいなかった。


逆に、入院してから亡くなるまでの半年ほどの記憶は色々と覚えている。


兄との2人のお留守番は、必要にかられ難なくこなした。たまにやってくる家政婦さんは自分が作ったものを食べないと怒る人だったから、好きじゃなかった。この人が来るなら誰もいなくていいやと思っていた。


父さんやばあちゃんと一緒に母のお見舞いに行ったこともよく覚えている。

よくベッドの下に潜り込んでかくれんぼをした。

お見舞いの場でもう帰って来れないことを分かりつつ「お母さんはいつ帰ってくるの?」と聞いて、母が泣いたこともよく覚えている。


それから、母のお葬式。


自分の記憶ではないが後から聞いた話によると、母のお葬式で私はずーっと震えていたらしい。

「この子は分かっているんだね。」と大人達で話していたものだと大きくなってからおばさんが教えてくれた。

震えていた記憶はないが、母が白い衣装を着て横たわっている様子や、兄を励まそうとお絵かきしたこと、お通夜からあけて翌日のお葬式で霊柩車に乗り込む自分。

途切れ途切れだが本当によく覚えている。

ただその情景を小学校に上がるまでずっと、何度も夢で見続けたから、もしかしたら上乗せされた記憶も混じっているかもしれない。



母と祖父の死を経て、いつしか私の中には自然と、家族をなくす事への漠然とした恐怖みたいなものが生まれた(らしい)。

小学生になる頃には毎日寝る前に神さま仏様、亡くなった母と祖父に、「家族がみんな健康で元気に過ごせますように、、事故にあいませんように、、、」などと祈りを捧げることが日課になった。

その時恐怖心からやってるという認識はなかったのだが、

これをしないと、家族の誰かに悪いことが起こるような気がしてやめられなかった。



さて、母の死は父にこそ耐え難いものだったと思う。

肺癌で亡くなった母。

当時ヘビースモーカーだった父。


後からおばさんに聞いた話だが、母が亡くなった時、父が泣くところを誰も見なかったらしい。それはとっても父らしいなと思う。

この頃父は、言葉にこそしなかったが、やり場のない悲しみ、自分を責め苦しんだ日々だったのではないかと思う。


当然だが、1日3箱吸っていたタバコをやめた。

あの頃、私がもう少し大きかったら、父を励ましてあげられたのにと悔やまれる。


自然母の話はタブーになっていった。

時おり、誰もいない時にばあちゃんや親戚のおばさんがチラリと母の事を教えてくれたりしたが、あえて深く追求することはしなかった。

でも、心の底ではいつも、お母さんてどんな人だったんだろう?と思っていた。


小学校2年生で父さんが再婚してからは、母の話は益々タブーになった。

ばあちゃんやおばさんも話さなくなったし、

聞いてはいけないことなんだと思っていたから自分から聞くこともしなかった。

(ばあちゃんには直接的に、「今のお母さんに悪いからね、死んだお母さんのことは話しちゃダメだよ」と何度も忠告されたw)



ただ一度だけ、父さんが母の事を口にした事がある。

その時は私と父さん2人きりで、リビングで寝そべってテレビを見ていた。

ふいに父さんが「お前の足首は母さんソックリで全然くびれがないなー。」と言った。

その時私は中学2年生くらい。

反抗期真っ只中だったし、突然のことでビックリして「そうなんだ。」と素っ気なく答えただけだったが、色んな意味でこの時の事を強烈に記憶している。

後にも先にも父の口から母の事が語られたのはこれ一度きりだ。




うまく説明出来ないが、ほとんど記憶のない産みの母は私の心の一部になった。

都合いい考えかもしれないが、何も情報がない代わりに、母は私の守護霊となって常に見守ってくれているような気がしていた。

心の中の母の存在は、私を強くしてくれた。

小中の頃は、母がついてるから私は無敵だ。とか、選ばれしもののような心持ちでいたものだ。

大人になった今でも、困ったことや悩んでいる時は相談するし、何か良いことがあると心の中でありがとうと言う。

自分がダメだなーという時には母にごめんなさいと言うし、産んでくれてありがとうといつも感謝してる。

いつも私の中に、亡くなった母がいる。

それはもう当たり前のように、無意識的に。



何度も言うが、亡くなった母と、今の母さんはそれぞれ大切で、優劣はない。

亡くなった母は心の中にいるし、今の母さんはいつでもリアルに、私の事を見守ってくれている。

多分、私という存在が未熟なために、2人の母が必要だったんではないかと思っている。


何が言いたいのかだんだん分からなくなってきたけれど、、、

記憶はなくても、何も形として残っていなくても、私が今ここにいるのは母が産んでくれたから。

そして、今こうやって元気に毎日楽しく家族がいられるのは、今の母さんがいるから。

血の繋がりは切っても切れない。

血の繋がりがなくたって家族としての絆は生まれる。


私はその両方を、一度に経験出来たのだから幸せだよなぁ。

そんな事を記憶を呼び起こす作業を通じて改めて思ったという話。



家族に心から感謝。



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vol.11 また桜の季節

みんながお花見に飽きてしまう前に、絶妙なタイミングで散っていく桜。

 

ほんと桜って散り落ちたひとひらまで美しい。

道を歩いていて、どこからともなく花びらが風に乗って飛んできたりすると、天使かなと思うくらい感動する。

 

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(2018.4.3 通勤途中)

 

 

地元の北国では、桜が咲くのはもっと先。ゴールデンウィークあたりで梅と桜が一気に開花する。

GWとは言っても夜桜花見なんてしようもんならダウンジャケットが必要だし、なんだったらそのタイミングでまた雪まで降ったりする事もあるほど、寒い。

 

寒空の中頑張って見る桜と、朗らかな陽気の中見る桜は全然印象が違うから

ばあちゃんにも、母さんにも、この桜を見て欲しいなぁと思う。

 

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(2018.4.4 近所の公園)

 

 

1年前、ばあちゃんが倒れた時期はちょうどこれから関東でも桜が咲こうかという時だった。

あの時、3月生まれのばあちゃんに最後に桜の花を見せたいなと色んな花屋さんに電話しまくったんだけど、結局どこの花屋さんにもなくて持ち帰ることができなかった。

もう長くはないでしょうと言われていたので、もう桜は見れないかもなーと思ってたから、こうやってまた桜の時期を迎えられて本当にうれしい。

 

あと1ヶ月ほど。地元にも早く桜が咲きますように。

 

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満員電車にゆられ、、

今日は休みで、思い立って都内に出て、終電でこんな時間に帰ってきた。

都内からの終電はいつもぎゅうぎゅうに混んでて、乗り込んだ瞬間げーって思う。


会社の転勤で住み慣れたまちを離れ、都内で暮らすようになった頃は、毎日ぎゅうぎゅうの電車に乗って頑張ってたんだけど。

今にしてみると、ほんとよく頑張ってたなーと思う。


朝のラッシュ時は電車の各扉前に何人も駅員が待機してて、もうこれ以上乗れないってくらい混んでる電車に人をぎゅうぎゅう押し込む。

我先にとなりふり構わずな人たち。殺伐とした車内。

なんか、壊れてるよなー、って事にあの頃は全く気づく余裕がなかった。


そんな時に出会った自由人の彼。

働かなくてもお金がなくても全くノープロブレムで、毎日楽しそうな姿に衝撃を受けた。

仲良くなるにつれ出会う彼の友達もまた、衝撃だった。

こんな生き方・価値観もあるんだ、という事を彼と彼の友達から学び、私は10年以上働いた会社を辞めた。


それがいい悪いはおいておき、会社の歯車となって資本主義の渦の中にいた時は見れなかった世界があるということ。

一般的な勝者敗者という評価はさておき、自分にとっての幸せって何かを考える余裕は、離れてみないと生まれないということが、離れてみてやっと分かった。


色んな呪縛から解き放たれた私はいま、この歳になってようやっと、自分の人生を歩み始めたように思う。


もっと早く気づいてたらなーとかとも思うし

とは言え人生当然山あり谷ありで結局大変なんだよなって事も身にしみてるが、でもそんなこともぜーんぶ含めて

自由人の彼との出会いに、私は心底感謝している。



なーんて昔のことを思い出したのも、このマンガがきっかけ。


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2018年マンガ大賞3位。

コナリミサトさんの『凪のお暇』。


とあることをきっかけに会社を辞めた28歳主人公凪の、自分を見つめ直す時間=『お暇』

を描いたマンガ。


自分のお暇経験とリンクするところがちょいちょいあって、はまってしまった。

お暇経験してなくても恋愛要素も強いし、とにかく面白いのでおススメです。





ちなみに自由人だった彼は、今はもう子の親となり、家庭を支える大黒柱として社会に揉まれて頑張っているのだから、人生ってほんと分からない。

いい、わるいなんてなくて、ただ今を生きるってことなのかな。










なんて素敵な話だろう

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桜と月。


今日はとっても暖かくて、夜になると今度はお月様が太陽みたいに明るくて、

こんな日はなんとなくまっすぐ帰るのがもったいないなーって気持ちになる。


そんなわけで仕事が終わって回り道して、大好きな場所へ。

ここ、花びらが舞い散るようになるとさらに泣きそうなほどキレイで、今ここにこの世とあの世の境があるんじゃないかな、って思ったりします。


ちなみに私、言葉にならないほど感動すると、大好きなフィッシュマンズというバンドの大好きな曲、「頼りない天使」


『なんて素敵な話だろう〜♩』


という1フレーズが頭の中でリフレインします。今日もまさに、なんて〜な1日。いい日でした✨








今後のこと

ばあちゃんの見守り日記と言いつつ、ひたすらこれまでの経過というか思い出話というか、個人的思い入れを書き綴り、だからどうしたという内容なのだけれども、文字に起こす事で気持ちが整理されるってこともあるんだなぁと実感しています。


ブログ、初めてみて良かったと思う反面、自分の嫌なところやダメなところ・・・いわゆるダークサイドと向き合う作業ゆえ、精神的ダメージも少なからず。(それも含めて良かった、なのだけれど。)


なのでこれからはもうちょっと気楽な・・読んだ本の事とか、見た映画の事とか、自分の好きなこと、くだらないことも雑記のように書いていこうかなと思っています。


読んでくださる方がほとんどいないブログなんですけどね、一応の宣言。。真面目だなぁ。