毎日ばあちゃん

99才、お迎えが来たけど断ったばあちゃんの事。家族の事。自分の事。

バスケの神さま

仕事が忙しくて激しくモチベーション低下。

 ブログからもしばらく遠のいてしまった。。

ほとんど読んでもらうことのないこのブログだけど、何を書けばいいのか考えてしまったのもよくなかったなー。

ということで、今日は単に自分の思いを吐き出す日。


 

 


小学校3年生の時だった。

どうしてその日1人で学校に残っていたのか、今となっては全く覚えていないのだけれど、とにかく私はその日、生徒が誰もいなくなる時間まで学校に残っていた。

夏の、日差しが強い夕暮れ時だった。


帰ろうと思って下駄箱に向かった時、体育館からボールの弾む音が聞こえた。

「あれ?誰かまだ遊んでいるのかな?」と思って体育館を覗いてみたら、そこには兄のクラス担任の先生がいた。


その先生は過去、水泳授業中に飛び込みに失敗し、左半身が動かなくなってしまった人で、(ふざけて飛び込みして遊ぶ生徒をしかるため、「いいかー、飛び込みってのはこうやるんだ!!」と手本を見せようとしたところ小学生用のプールが思いの外浅くて頭を強打したという、、なんとも言えない話しである。)動かない左半身を人並みならぬ運動神経と精神力、そして杖をついて補いながら、先生としての人生を続けている人だった。

 


体育館に佇む先生の手にはバスケットボールがあった。

先生はボールの感触を確かめるように、何度かその場でドリブルをした後、右手だけで軽々と掴んだボールを額のところで構えた。

目線の先にはバスケットのゴール。

そのまま、右手だけのキレイなフォームでボールを投げた。


体は全く動かない。腕だけの動き。

右腕の、肩から手先にかけて、その一本の動きが完璧な流れだったと思う。

ボールは美しい孤を描いて、音もなくゴールネットに吸い込まれていった。

 

ネットを通り抜けたボールは勢いを残したまま、数回跳ねて先生のもとに戻ってくる。

先生はそのボールをまた右手で掴み、さっきと同じようにきれいなシュートを続ける。


ボールがまるで生き物ののようだった。

先生の言う事を忠実に守る鷹。

杖をついてもゆっくりしか動けない先生が全く動かなくてもいいように、ちゃんとその場に戻ってくる。

体育館の窓から降り注ぐ西日が、先生とボールとゴールをスポットライトみたいに照らすようにキラキラしていて

その光景は優しい時間というよりも、研ぎ澄まされた感覚が刺さる。そんな静かな時間だった。

 

心が震えた。

なんて美しいんだろうと思った。

私もあんな事が出来るようになりたいと思った。

 


ふと、私の存在に気付いた先生がシュートの手を止めこちらを見た。

「まだ残っていたのか?早く帰りなさいね。」

 

そう言う先生に私は、ドキドキする胸を押さえながら聞いた。

「先生、それは魔法?どうやったらそんな風にボールを思い通り動かせるの?」

 

先生は優しいまなざしで

「4年生になったらミニバスチームに入っておいで。そしたら教えてあげるよ。練習したらシュートもパスも上手になる。」

と言った。

 

後から聞いた話だが、その先生はかなり本格的にバスケをやっていたらしい。

半身不随になり体を自由に動かせなくなったことで社会人チームも抜けてしまったそうだが、バスケットに人生をささげてきたような人だったそうだ。

 

 

その日から、私は4年生になるのが楽しみで楽しみで仕方なくなった。

早くバスケがしたい!!と心待ちにしながら4年生になるのを指折り数えるように待った。

 

そしてやっと4年生になった春。

なんとその春に人事異動があり、先生は遠くの学校に転勤してしまった。

(教頭として他の学校に行くことになったそうだ。)

先生に教えてもらえないことはとっても残念だったけれど、その時はやっとバスケができる!という喜びであふれていたので、

とにかく毎日がキラキラしていた。

お遊びに毛の生えた程度のチーム。厳しい練習ではなかったけれど、最初は全くゴールに届かなかったところから少しずつ上達していって、初めてネットを揺らした時にはこの上ない喜びと感動が体中を駆け巡った。


いつか先生に会ったとき「わたしこんなに上手になったよ!」と伝えたい。そう思って一生懸命練習した。



それから一年が経った5年生のある冬の日。


太陽が舞い散る雪をキラキラと輝かせるほど日差しが眩しい朝だった。

連絡は突然だった。


電話を受けた母は、えぇとか、はい、とか言いながら何やらメモをとり、電話を切ったあと兄に言った。

「先生が、亡くなったんだって。今日は午前中授業お休みで、みんなでお葬式に行くことになるよ。」


兄たちは、先生の最後の担任クラスとなったため、みんなで参列しましょうという連絡網が学校から回ってきたのだ。


兄の横でその話しを聞きながら

「私も行きたい!」と言ってみたが、あんたはダメ。先生に教わってないでしょ。と速攻で却下されてしまった。


泣く泣く断念したが、それでも居ても立っても居られないというか、とにかく先生に最後のお礼をしたいという気持ちがおさまらず、私は昼休みの時間いっぱいかけて、まっさらな雪が積もる校庭で、腰まで埋まるほど積もった雪をかき分けながら大きな「ありがとうございました!」の文字を作った。

空からならこれが見えるだろうと思った。


それから、せんせーーい!!見えますかーー!!聞こえてますかーー!!

ありがとうございましたーーー!!あたしバスケ頑張りますーー!!

と叫んだ。



帰ってから聞いた話によると、先生は出張先で突然倒れ、そのまま帰らぬ人になったそうだが、おそらく、半身不随になった事故の後遺症が、今になって表面化したものだろうという話だった。。




その後、中学で私はスパルタ熱血指導の先生と出会い、1年の362日を練習に費やすという苦行のようなバスケ生活を送った。

泣きたい日も死にたい日もたくさんあった。

楽しいと思えなくなるほどだった。

でも半年も経たずにみるみる上達して、あの時の先生並みにシュート確率も上がり、地区の代表選抜に選ばれたり、キャプテンに任命されたり本当に、バスケ一筋の生活だった。

後にも先にも、バスケほど一生懸命取り組んだものは他にない。


その後、高校は私立の進学に進んでしまったため、両親からバスケ禁止、部活禁止令が出てしまったが、大学から社会人チームを自分たちで作り、社会人になるまで続けた。


仕事の転勤やメンバーの環境変化により、社会人チームは自然消滅してしまい、私自身も仕事でそれどころではなくなったし、現在は生まれ育った場所から遠く離れたところで暮らすようになったので、自然とバスケからは遠のいてしまった。

最近は年齢的にも厳しくなり、たまに地域の練習チームに参加する程度になってしまったけれど、私は今でも、あの時の、あの光景を忘れていない。


あの時、私のところに降りてきたバスケの神さま。

教えてもらう願いは叶わず、上達を披露することも出来ず亡くなってしまったけれど、、

先生との出会いが私の人生を変えました。

ありがとうございました!!